Room59 古典芸能へのいざない~能楽・歌舞伎・文楽

注) 下記の講座は終了しました

  • 岡本会場 2018年1月20日(土)
  • 大阪会場 2018年1月22日(月)

講習時間・参加費用

※会場別に異なりますので
 右の申込み欄をご確認ください

※終了後の交流会費用は別途

開講会場

岡本会場

三宮会場(レ・ヴィーニュ)

東京会場

申込方法

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キャンセルの場合

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サロン開講によせて

今回は日本の代表的古典芸能である、歌舞伎・能・狂言・文楽をとりあげる。2010年の開講当初からいつかこれをやらねばならないと気にはなっていたが、私にはすこぶる手強い相手で、延び延びにしていたテーマである。しかしながら、教養サロンも始めて8年、参加者の希望もあり、いよいよ観念した次第である。

まず、歌舞伎。今年の歌舞伎は慶事で始まった。名門高麗屋(松本幸四郎家)の親・子・孫3代同時襲名である。NHKでは1月2日に、襲名口上の模様と、襲名披露興行初日の演目で、市川團十郎以来の家の芸である『勧進帳』を放送した。『勧進帳』は高麗屋の代表的芸で、二代目白鸚(九代目松本幸四郎)の弁慶上演は1100回を超えている。今回は十代目幸四郎(七代目市川染五郎)の弁慶お披露目であり、「不動の見得」、「元禄見得」などの数々の見得、山伏問答での富樫左衛門との応酬、「延年の舞」、そして最後の「飛び六方」と見どころ満載の舞台を精力的に演じた。また、12歳の八代目市川染五郎(四代目金太郎)の義経は初々しく、この先が楽しみである。従者の四天王には、中村芝翫、片岡愛之助ら豪華キャストが名を連ねていた。簡素な舞台に、大げさな芝居。この非日常観がたまらなくいい。そして、絶妙の間合いで大向うからの「高麗屋!」の掛け声。客と演者が一体となった空気もいい。オーナーが初めて歌舞伎を観劇したのは、長谷川工業の長谷川社長の紹介で2010年10月に大阪平成中村座が大阪城西の丸で行った大歌舞伎だった。オーナーと同年代の今は亡き中村勘三郎をはじめ、橋之助(当時)、獅童らを間近で見て感動したものである。

能は14世紀後半に天才能楽師の観阿弥がそれまでの猿楽に歌舞伎的要素を取り入れて、力強い芸風を優美な芸風に変え、リズムとメロディを重視して音楽面で大改革を行ったものである。さらに、その子世阿弥が、父が目指した「幽玄」を理想とする芸に磨き上げた。能は武士の嗜みとして幕府に強力に庇護されて式楽として発達したが、それは民衆の楽しみを奪ったことを意味する。お上に独占された能や狂言を、自分たちのための芸能として創り出したもの、それが歌舞伎である。能の世界は歌舞伎より非日常観が強くて、不思議な世界だ。やや前傾した役者の姿勢とすり足移動、いょ~~、ポン!という心地よい囃子の響き、朗々と謡われる詞と節、わずかな傾きだけで気持ちを表す能面の不思議と技、屋内に設けられた屋根付きの舞台装置。どれも、洗練されて無駄がない。

狂言は、文句なしに面白く、わかりやすい。オーナーにとっては、高校の体育館で演じられた狂言が初めての出会いであった。内容は忘れたが、終わったあと、クラスの人気者が「さては、さては・・・」と真似をしてみんな爆笑していたことを思い出す。いまでこそ、能と狂言は区別されているが、元をたどれば一つの芸能だ。そして、能と同じく狂言も武家の式楽となったのである。狂言師野村萬斎の芸を数年前に実際に見たが、開始前に、本人が舞台で狂言についてわかりやすく解説していたことが印象的だった。また、2016年に大ヒットした映画『シンゴジラ』のゴジラ役を野村萬斎さんがやったというのは、実に興味深い。ゴジラの動きは狂言師の動きであった。

文楽は、人形浄瑠璃のことで、室町時代に平曲(琵琶法師による『平家物語』)の余興として語られた『浄瑠璃姫』が語源の浄瑠璃と、西宮神社に奉仕しながら各地で人形を操っていた夷舁(えびすかき)が結びついて人形浄瑠璃となったとされる。

サロンでは、いつものようにこれらの芸能の歴史を簡単に見たうえで、観劇において知っておくべきことを押さえていく。オペラの時と同じように、あらかじめ、成り立ちやストーリー、見どころなどを予習した上で実際に観てみるとより一層味わい深いものとなるであろう。ユネスコ世界無形文化遺産となっている日本の古典芸能がもっと庶民の手の届く場所と値段で、広く演じられることを願うばかりである。